【社会人学生のボヤキ】学ぶということ

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学生時代、最も嫌いだったのが「社会」という教科だった。地図が異常に好きで、別の授業中に地理の教科書や地図帳を開くADHD的な部分はあるが、歴史、公民に関する「社会」がダメだった。理由は明確である。興味が無かったから。

今を生きていて、目の前のことで精一杯なのに歴史なんて学んで何になるんだ。政治を学んで何になるんだ。漠然とそんなことをぼんやり考えながら、なんとなく短期記憶として吸収するだけの時間。一応は、テストで合格点を取るくらいには勉強したが当時全く興味が無かったために今現在、ほとんど覚えていない。

そんな私は今現在、社会人学生として大学に通っている。そして、あんなにも嫌いだった「社会」を学んでいる。私の専攻は(広義では)哲学だ。今の所、どこに的を絞って卒論を書くかははっきりと見えていないが、ボンヤリと見えてきた通過点に向かって学習を進めている。

全てにおいて「歴史」は前提の知識

文系学部だからということもあるかもしれないが、ほとんどすべての学科で歴史の話は当たり前に出てくる。これが今、私を苦しめている。理由は言うまでもない。覚えていないからだ。辛うじて世界史に関しては大好きな世界地図と結びつけてなんとなく年表が浮かぶが、日本史に関しては全くわからない。

もしかすると、現役の学部生には私と同じタイプの学生がいるのかもしれない。

高校までの社会では、出来事しか教わりません。だから興味を持てず、苦手意識を持った人が多い。問いを持つことが理解を深めるのに重要だというのに。

とある教授はそんな事をボヤいていた。そう、ただ出来事だけを並べても歴史そのものに興味が持てなかったから、なんとなく教科書を絵として記憶してイメージだけで試験に挑んでいた。もちろん、中身なんて理解してない。若い脳はそれでどうにかなっていた。高校を卒業してから約10年。高校の教科書の複写はもう脳に残っていない。

例えば文学には政治的背景や歴史的な出来事は必要不可欠だし、哲学に関する科目はほぼ確実に戦争の話が絡んでくる。いちいち頭にクエスチョンを浮かべていたら、目的としている本来の学びをストレートに得ることは難しい。

目的があれば「楽しい」に変わる

そもそも、大学で学んだ所でもう既に手に職を持っているので大学で学んで何か別の者になりたいという欲はない。ただ単純に「哲学」という学問の知識を深めたい。それが私の学ぶ目的だ。おそらく10年前の私はこんなことになるなんて考えもしなかっただろうが、今現在私はこの学びを得るために仕事をしている。SNSを開けば「仕事だるい」「学校だるい」「月曜日が辛い」そんな書き込みを毎日のように目にする。本来、仕事をしたり学校で学んだりするというのは、個人の本来の目的に向かって対する行いのなるはずなのだが、その目的を見つける余裕さえ持てないくらいにひたすらに社会が作り上げた暗黙の義務を熟す人が多い。もちろん仕事自体に、学校自体が目的という人も多くいるだろうし、趣味のために働くという人もいる。目的がどのような形であっても、信念として持ち合わせている人といない人では表情が全く違って見える。

これは「生きがい」と呼ばれたりするが、この生きがいという概念はそもそも近年生まれたものであり、少なくとも明治維新以前には無かったと言われている。明治維新についての説明は割愛するが、そもそもこの改革によって大きく社会制度が変わったために人々から生まれたとされる「生きがい」という概念。先述の通り、人々のより人間らしいあるべき姿というのは目的を持って過ごすということなのだと、改めて学び直しをする中での気付きとなり、私はこれを追求しようと今に至る。

もちろん、私の意見が正しいとか正しくないとか、そういう話ではなくあくまでも一個人の意見であるけれど、追求すればするほどに自身の心が豊かになる実感が持てるし、目的のある学びはどんな分野にせよ人々の心を豊かにすると、アラサーババアの経験則として共有したい。

どんなことでもいい。今まで苦手意識を持っていた分野でも、これまでと異なる目的があれば、好きに、得意になるかもしれない。義務としない余裕があるならば、9月もまもなく終わることだし、「学びの秋」とでも称して。

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